さわさわさわ 木々の間を風がすり抜ける音に混じって、か細い声が聞こえる。 「お父さん、・・お母さん・・たすけて・・」 人気のない神社の一角。 大きな木の上にぽつんと小さな少女が、座っていた。 いや、座っていると言うよりもむしろ、しがみついていると言う方が正しいかもしれない。 どうやら、上ってはみたものの降りられなくなってしまった様子である。 随分前から、助けを求めて泣いていたのであろう、声は掠れてしまい助けを呼んでいるというよりは、呟いている感じである。 其処に人影が近づいてきた。 長身の顔立ちの整った若者である。 優雅に直衣を着こなし、口には作り物のような微笑みを浮かべている。 まるで、「微笑」という仮面を付けている様だ。 −ふと、男の表情が変わった。 −ちりん 「・・・なんだ?」 −ちりん −ちりん 男は、少女が居る方向とは逆の方へ向かおうとしていたのだが、彼を呼んでいる様な鈴の音を耳にして後ろを振り返った。 何もない。 だが、また元の方向へ歩き出そうとした瞬間、 −ちりん まるで、彼を呼び止めるかの様に鈴の音が響いた。 「やれやれ、どうやら私をこちらに行かせたくないらしいねぇ・・。」 彼としては、そういう事にやすやすと従うのは主義に反するのだが、ここで確かめずに後でずっと気になったままと言うのも気に入らない。 仕方なく、肩をすくめて向かおうとしていた方向とは逆の方向へ歩き始めた。 「・・・おかあさん・・。」 微かに声が聞こえた様な気がして、辺りを見回してみるが誰もいない。 だが、彼も伊達に武官をしている訳ではなく、微かな気配を感じて上を見上げた。 最初に目に入ったのは、淡い桃色の髪。 そして、奇妙な衣を身に纏った華奢な体。 男は一目で状況を理解し、端正な顔に苦笑を浮かべた。 「――なるほど、ね。」 どうやら、鈴の音の主は彼にこの少女の事を気付かせたかった様である。 手に持っていた扇を懐に収めると、すい、と身軽に木の上に登った。 (まさか、木登りをする羽目になるとはねぇ) くくっと、この予定外の出来事を楽しむ様に笑いながら、少女に近付く。 先程までとは、うって変わった人間らしい表情である。 「ほら、もう大丈夫だ。おいで。」 木にしがみついている少女に手を差し延べ、慎重に抱き取り、片腕に抱いて下に降りた。 まだ震えている少女を抱いたまま、木の根本に腰を下ろす。 そっと頭をなぜてやっていると、ようやく恐怖で強ばっていった体から力が抜けるのが解った。 「お兄ちゃん、ありがとう。」 少女はにこにこと先程までの、恐怖に強ばった顔が嘘の様に微笑み信頼しきった様子で彼の方を見上げている。 とても可愛らしい、純粋な微笑みであった。 彼女の笑顔に一瞬どきっとした若者は、そんな自分に苦笑した。 (この私が、こんな年端もいかない娘の笑顔に心動かされるとはねぇ・・) 若者は、貴族でありその中でも出世頭、そして何より容姿が抜群に優れていた。 色々な女性と付き合い、別れ、浮名を流してきた。 だが、どんなに美しい女性も、どんなに可愛い女性も、彼の心を動かす事は無かった。 なのに、こんな少女に今まで感じた事のない胸のざわめきを感じるとは、おかしな事である。 (これが、ふさわしい年齢のふさわしい身分の女性に感じたものであったなら、母を安心させる事が出来る事が出来たかもしれないね・・。) ふと、先日亡くなったばかりの母親の事が頭に浮かんだ。 何時も自分の事を心配してくれていた母。 何でも出来て、何にでも恵まれていて・・周囲は、兄弟や父親までもが自分をそういう風に見ていたのにも関わらず、母は何時も一番に自分の事を心配していた。 『貴方は、可哀相な子ね・・。』 母は、自分の事をそう言った。 以前は不思議であったこの言葉も、最近では何となく理解出来る様になってきた。 何でも出来て、何でもあって・・それが当たり前になってくると何もかもが酷くつまらない物に感じられる。 何か一つの事に情熱を傾ける事の出来る、友人や親兄弟達がうらやましかった。 一人の女性に夢中になれる人々がうらやましかった。 何故、自分の心はこんなにも凍りついた様に動かないのか自分でも不思議に感じる事がある。 母が亡くなった時でさえ、涙一つ流れなかった。 兄弟たちは、そんな自分を不愉快そうに見ていた。 悲しく無い訳では無かったのに、何故自分の心はこんなにも動かないのか・・・そんな事をつらつらと考えていると、ふいに暖かい物が頬に触れた。 どうやら、少女の手が自分の頬に添えられている様であった。 顔を上げて、少女を見るとぎょっとする。 彼女は、自分の頬に両手を添えたまま涙を流していた。 「っ!!どうしたのだい?」 頬に触れている小さな手を優しく握って問い掛ける。 「・・・お兄ちゃんの代わり・・・。」 「?」 少女の言った言葉の意味が分からず、再度問う様にして彼女の顔を覗き込む。 「・・お兄ちゃん、悲しいのに泣けないって、ここが言ってる・・」 そう言って少女は、今度は彼の心臓の辺りに手を置いた。 どくん・・ 彼女が手を置いた瞬間、何か暖かいものが体を満たす。 どくん どくん・・ 目を瞑って、息を吐いた。 酷く心地良い感覚。 生まれて初めて、凍り付いていた自分の心が溶け始めた。 そう思える。 暫くその感覚に身を委ねていると、ふわり・・と風が動いた。 次の瞬間には、温もりが消えていて、目を開けるとそこにはもう何も無かった。 そう、少女の姿が消えていたのである。 「!!」 がばっと立ち上がって、辺りを見回すが何処にも人の気配が無い。 呆然と立ち尽くす彼の耳に、微かに−ちりん、と鈴の音が響いた。 数年後、左大臣家で星の姫から龍神の神子の話を聞いた若者は数年ぶりにその時の感覚を思い出す。 (・・ああ、そうか) 不意に黙り込んだ若者に、どうしたのかと星の姫が尋ねる。 若者は、にこやかに笑ってこう答えた。 「いや、実はね藤姫。私はね、龍神の神子には何処か惹かれる予感があるのですよ。」 一応、お話の中に出てくる少女はあかねちゃんです。 珍しく、軽めのお話。 続きでちょこちょこ書けたらいいなぁと思っています。 |